愚者の贈り物

3年前にmixiで書いた文章です。
使っている時事ネタは、ちょっと古くなっていますが、名作は年月を経ても色褪せないもの。
心あたたまるクリスマスストーリーをあなたに!

愚者の贈り物

皆さんもご存じの、「賢者の贈り物」と名づけられたО.ヘンリーの名作があります。
ある貧しく若い夫婦のクリスマス・イヴの出来事を描いたものです。Wikipediaから粗筋を拝借しますと、

貧しい夫妻が相手にクリスマスプレゼントを買うお金を工面しようとする。
妻のデラは、夫のジムが祖父と父から受け継いで大切にしている金の懐中時計を吊るす鎖を買うために、自慢の髪を切って売ってしまう。
一方、夫のジムはデラが欲しがっていた鼈甲の櫛を買うために、自慢の時計を質に入れていた。
物語の結末で、この一見愚かな行き違いは、しかし、最も賢明な行為であったと結ばれている。

てな感じのストーリーです。
最後ジムは、

「ねえデラ。もうしばらく僕たちのクリスマスプレゼントには、手をつけずにおこう。今すぐ使ってしまうには、ちょっと上等すぎると思うんだ。君の櫛を買おうと思って、僕の方は時計を売ってしまったんだよ。あ、そうだ。そろそろチョップを火にかけたほうがいいんじゃないかな?」(拙訳)

なんて粋なセリフで結んでいます。貧しさの中に灯る一本のロウソクのように暖かい思いやりが二人の仲むつまじさを感じさせ、「いますぐ使うには上等すぎるよ」というセリフが、白く積もった雪の眩しい真っ青に晴れたクリスマスの朝のように明るい二人の未来を暗示しています。名作たるゆえんです。

しかし、この物語にはどうしても気になる一点が。

「物語の結末で、この一見愚かな行き違いは、しかし、最も賢明な行為であったと結ばれている。」

この部分です。作者に逆らうのは何ですが、「最も賢明な行為であった」というのは私は間違いだと思うのです。
これは行為が賢明だったのではなく、夫婦が賢明だったのです。
そうでないと、こんなハッピーエンドありえません。
それを証明するため、寓話を一つ試みましょう。


「愚者の贈り物」

極東の格差社会、ジャポンという島国にある金持ちの夫婦が住んでいました。

夫は神武といい、高校中退でしたが、持ち前の暴走族根性で、経済アナリストにも市場の噂にも一切耳を傾けず、ただただ安い株を買い高くなったら売るという単純作業を繰り返した結果、人口の1パーセントが属する富裕層に食い込むことに成功したトレーダーでした。
どんなに有利な状況でもビビって思い切った買いや売りに踏み切れない一般投資家よりも、ただ確率論的に動くサイコパスの方が株取り引きには向いていると言います。彼は、サイコパスではありませんでしたが、自分の男気以外を信じない彼が、株に強かった理屈はサイコパスが株に強い理屈と同じです。彼は、素晴らしい度胸の持ち主でした。

妻の寺は、プライドの高い才媛でした。高学歴の父が短大卒の母を馬鹿にしてDVを繰り返す家庭に育ったため、女が身を守るにはしっかり勉強するしかないと思い、学歴の鎧を身にまとい、理論武装することで自分を確立してきたのです。
留学経験もある彼女は英語がペラペラ。外国人と話すときはもちろん英語。日本人と話す時でも、外来語は本場の発音で披露します。

二人は、寺の勤める証券会社のパーティーで知り合いました。
二人はそれぞれ惹かれあいます。神武は寺の華やかな経歴と知的な雰囲気に、寺は神武の型にはまらないところと男らしさに。そして、瞬く間に恋に落ちました。
二人はごく自然の流れで将来を近いあいました。なぜって、二人はそれぞれ育ってきた環境が違うのに、こうして出会ったのですもの。これを運命と呼ばずになんと呼びましょう?

さて、ジャポンの伝統として、二人が結婚するには親の承認が必要です。
神武の家庭は崩壊していたので問題ありませんでしたが、寺の両親夫婦はDVで深く結びついていたため健在でした。そのため、寺の父親は二人の結婚に猛反対しました。これが神武の暴走族根性と、寺のプライドに火をつけたわけだ。恋って障害があったほうが盛り上がるのよ。あれよあれよの内に、二人はロミオとジュリエットのつもりになりました。

「Oh Romeo!どうしてあなたはRomeoなの?」

「おう、呪裏獲屠!お前はなんで呪裏獲屠なんだ!!!」

寺パパの反対を押し切って二人は結婚。晴れて夫婦です。
式はそりゃあ盛大だったなあ。デカイ男に憧れる神武が男気を見せ、寺の両親にも一応招待状を出してみようと提案したので、二人はそうしました。
ちょうどその頃、ホリエモンが世間を騒がしていましたので、寺のパパは、神武のことをすっかり見直してました。一部上場企業でそこそこ出世していた寺のパパは、将来的に有力なコネクションになるかも知れないしと思い、出席に○をつけました。それでも決まりが悪いので、式の終了後寺のパパは、


「最初は反対もしたが、それは娘を案じるあまりだ。若気の至りってことも考えられるからな。でも君が誠実な青年であることはよくわかった。娘をよろしく頼む」

とだけ、神武に言っておきましたとさ。

さて、二人はマンションを買い、一緒に暮らし始めました。二人は、本当に愛し合っていました。愛さえあればうまく行く。二人は本気でそう思っていました。

二人は、それぞれの方法で、お互いに愛を示そうとしました。
二人とも自分の持っている一番良いものをあげようと思ったのです。
寺の場合、それは知性でした。
神武が新聞など読んでて知らない漢字のある時は、寺が横から顔をのぞかせ、神武に懇切丁寧に説明してあげます。例えば、「胡錦濤」という漢字を指し、
「この漢字はね、コキントウって読むのよ。中国の主席なの。日本で一番偉い人は首相だけど、中国では主席っていうのよ」
と、教えてあげるのです。解説を聞きながら神武は、なんて知的で素晴らしい妻だろうと満足しました。
しかしある日、二人でテレビを見ていた時のことです。神武は寺にいつものように質問しました。

「こいつの名前はなんていうんだ?」

「え!?トニー・ブレア首相よ!?本当に知らなかったの!?」

この「え!?」が、最近株がうまくいかなくなり始めて気が立っていた神武を怒らせました。

「知らなくて悪かったな。俺はなあ、そんなこと知らなくもお前の何倍も稼いでいるんだ!ちょっとばかり勉強ができるからって馬鹿にしやがって!」

と、言って寺をボコボコにしてしまったのです。顔の腫れ上がった寺は、翌日会社を休まなければいけなかったほど、暴力は凄まじいものでした。

寺はショックでした。
なんで学歴も教養もあるこの私が、こんな野蛮な暴力に晒されなくてはいけないの?ってね。
恋に燃え上がってきる時は相手を美化しているものだし、お互い相手の抱くその美化された像に応えようとしますから、悪いところは見えないものですが、結婚して初めて、相手の人となりを見せ付けられてしまうのです。

さて、さすがの神武も後悔しました。
神武は、本当に寺を愛していましたから、その愛を示そうと、寺と同じく自分の持ってる一番大切なものをプレゼントしようと思いました。
神武の一番大事なものは、資本でもあり、利益でもあるお金でした。このお金のお陰で、学歴もコネもない彼はここまでのし上がってきたのです。

とは言え、彼もさすがに、現ナマをそのままプレゼントするほど無粋ではありません。食事に行くと見せかけて、思いっきり金をかけた東京湾クルーズをサプライズでプレゼントすることにしました。
彼はよくこの手段を使いましたが、今まで感動しなかった女はいない鉄板のプレゼントなのでした。ただ、彼女への愛が本物であることを示すため、いつもの10倍の500万円という大金をかけて準備しました。

「おい、メシに出かけるっぺ」

「……」

「おい、出かけるって言ってるんだ。早く支度しろよ」

「嫌よ」

「嫌よじゃねえよ。俺が行くって言ってるんだから、オメェは着いてくりゃいいんだよ」

「あなたっていっつもそう。本当に自分勝手ね。私がこんな顔で出かけられると思ってるの?」

「いいから行くっつってんだろ!」

「絶対嫌!一人で行けばいいでしょ!」

「なんだとこのクソアマー!」

神武は東京湾クルーズどころか、また寺をしばいてしまいました。
とうとう寺は、
「もうこんな生活嫌!離婚よ!同級生の弁護士に頼んで慰謝料はたっぷりいただくからね!」

と、叫んで実家に帰ってしまいました。
寺のパパは出戻りの娘を優しく迎い入れこう言いました。

「こうなることはわかっていた。だからパパは反対したんだよ。ともかく戻ってきて良かった。お帰り」

その頃世間はホリエモン逮捕で持ち切りでした。だから娘が帰ってきてパパはホッと胸を撫で下ろしました。そして今度自分の優秀な部下とでもお見合いさせようと思いました。





結局プレゼントは上げるほうも貰うほうも、その人間性が大切なのです。

平和憲法にもチャンスを!


憲法9条の下、戦後65年間、日本の平和は保たれてきた。憲法第9条は言わずもがな、「戦争放棄」と「戦力の不保持」を謳った条項だ。日本国憲法が「平和憲法」と言われる所以にもなっている。

改憲派護憲派

その9条を変えようという動きがある。変えようとする人々は「改憲派」と呼ばれる。改憲派の中には偏狭な思考に凝り固まった連中もいるが、多くはまともで、その主張には説得力があり、意見は傾聴に値する。
一方、憲法9条を守ろうという人々は「護憲派」と呼ばれる。護憲派の主張の最大の根拠は何より65年の平和の実績だ。なるほど、65年というのは中々インパクトがある。しかし、日本が戦争をしないで来られた理由は、本当に9条の存在だけで語れるだろうか?
今まで日本が戦争に巻き込まれないでいられたのは、アメリカの核の傘と、在日米軍の存在が大きいのではないか? 護憲派の多くは、この疑問を無視する。大変な欺瞞だ。

護憲派の欺瞞はもう通用しない

平和憲法を改正すれば、日本は戦争への道を突っ走る」という恐怖、「アメリカの保護がなくなれば日本は戦争を仕掛けられる」という恐怖が、戦争を放棄しながら、いざとなればアメリカの軍事力を頼るというダブルスタンダードを日本人に強いていた。
だからこそ護憲派の欺瞞にも存在価値があった。欺瞞は、ダブルスタンダードの間で股裂き状態に苦しむ日本人の「癒し」だったのだ。
だが、時代は変わった。アメリカの一極支配が終わり、世界は多極化している。アメリカの軍事力に頼り、自らは平和憲法を唱えるというこれまでの国防政策を変えざるを得なくなった。下手をすると、アメリカの軍事力を頼るために、アメリカの戦争に援軍を出すことを強いられる危険性さえある。
護憲派の欺瞞はもう通用しない。日本人は、自らの安全保障のため、自分達の力で何ができるかを考えなくてはいけない。では、一体何ができるのだろうか? 憲法を改正し、自ら軍事力を持つことだろうか?

まずは議論と検証を

戦後65年間の平和は、平和憲法によるものか、アメリカの軍事力によるものか、しっかりとした検証は行われていない。
軍事力が戦争を予防するという実績は、今まで世界中で積み重ねられてきた。しかし、戦争放棄が他国の攻撃を予防するという研究は、寡聞にして聞かない。そして近代以降、日本のような大国が65年間も平和でいられたという実績は、他に類を見ない。もしかすると平和憲法は、軍事力以上に、戦争を抑止する力があるのかも知れないということだ。
アメリカが日本のための血を流すという保証は消えた。これまでのようなダブルスタンダードは通用しない。しかし、だから改憲しなくてはならないというのは短絡だ。まずは、65年の平和に9条がどれだけ貢献してきたかの検証、そしてその検証に基づき、今後も9条が平和に貢献するかを検証してからでも改憲議論は遅くはないだろう。
改憲して重武装化すれば、今までにない脅威が出現することだって考えられる。周辺諸国の警戒が強まり、日本を敵視するようになるかも知れないし、同盟国の戦争に巻き込まれる可能性だって高まる。検証が済んだら、改憲を断行した場合のリスクとメリット、護憲を貫いた場合のリスクとメリットを冷静に見比べ、議論を尽くす必要があるだろう。

平和憲法にもチャンスを

検証と議論の結果、重武装しなければ、日本の未来はないというなら改憲もやむを得ない。しかし、戦争を放棄したまま安全保障も成立するならば、それに越したことはないはずだ。
これからの日本は、アメリカの保護を抜け出した「普通の独立国」として、また戦後65年間の平和の実績を積んだ「特殊な国」として新たな歴史を刻んでいく。だからこそ、護憲派には反省と再考を促したい。そして、改憲派にはこう訴えたい。平和憲法にもチャンスを!


関連エントリー憲法9条ってどのくらい平和に貢献しているの?

現代恐怖考

伝統的な怪談には、祟られる方に、祟られる理由(血筋、怨恨、業...etc)がある。つまり「因果律」が支配するストーリーなのだが、現代の怪談は因果に関わらず容赦なく凶事に巻き込まれる「不条理」が恐怖の核になっている。
システム(知、法、行政、テクノロジー...etc)に制御された安全な生を送る現代人にとって最もリアリティーのある恐怖は、システムに潜り込む「エラー」や「バグ」だろう。具体的には、事故や犯罪や災害やテロや狂気などのような現象だ。
エラーやバグはシステム全体から見れば予測される「リスク」として処理することができるかも知れない。しかし、直撃される個人にとっては「クライシス」でしかない。つまり「偶有性(他の状態であってもいいのに、たまたまその状態であるという性質)」に支配された現象である。
様々な危険が制御されるようになる以前は偶有性は偶有性として意識されないほど当たり前のことだった。だから、「制御以前」は、どうにもならないことは、どうにもならないこととして諦め、どうにかなることだけを考えることに徹すれば良かった。「触らぬ神に祟りなし」「人を呪わば穴二つ」「自業自得」「因果応報」「親の因果が子に報い」という格言が説得力を持つ土壌だ。
しかし、システムによる「制御以降」は、システムによって制御できない偶有性の存在が際立ってきた。テクノロジーや知によって因果律を操作するようになった人間は、どうにもならないものの「恐怖」を再発見したのだ。
いくら正しい生活を送ろうが、金銭や地位や名誉で人生を上手く舵取りしようが、クライシスは何の差別もなしに突然襲ってくる、真に「平等」な存在だ。その平等性が現代人にとって本質な恐怖なのだ。
犯罪率は改善の一途なのに、体感治安は反比例して悪化しているという現象が端的に現代人の恐怖のを物語っている。私たちは実際に犯罪があるという事実よりも、警察力や個人的な防犯努力によっても、犯罪被害が防げないという事実にこそ恐怖しているのだ。
上質な現代怪談やホラーは、「回避不能」、あるいは「解決不可能」という特徴を備えている。別の言い方をすれば、エラーの原因を究明して「デバッグ」したいという現代人の「本能」をあざ笑うかのようなものが怖い。
以下の怪談は物語として双方同じ構造を備えているが、前者は「制御以前」、後者は「制御以降」の恐怖を大変巧みに演出している。大変上手に現代風にリメイクされたとも言える。是非一度、多少のお時間をとって、読み比べていただきたい。なに、それほど長いものでもない。安心されたし。


前者の『もう半分』の解釈は一通りだ。子供に転生したのは自ら手をかけた爺さんに決まっているし、酒屋の夫婦には明確な犯意が認められる。さような怪異に襲われても仕方がない。
しかし後者の『悪夢』は、自分の意志に関わらず、容赦なく巻き込まれていく型のストーリーだ。つまり回避不能
また、娘の「おとうさんが来てよかったね」というセリフは、霊が言わせたものとも、この女性の罪悪感が引き引き起こした狂気が聞かせたものであったとも解釈できる。霊が言わせたものであったとしても、転生であるとも憑依であるとも解釈できる。
そして・・・霊の正体でさえ、ひき殺した女児であるとは限らないのだ。もうお気づきかな? 霊の正体は自殺した「彼」かも知れないのだ。正体を突き止めさせないことによって、解決を拒絶する。まさに「制御以降」の恐怖を表現しているのだ。
げに怖ろしきは偶有性かな。悪夢の女性はきっと、ふとこう思う瞬間があることだろう。「なぜ私だけがこんな目に・・・」

意味のない「若者の○○離れ」

「若者の○○離れ」という言い方は非生産的だからすぐに辞めた方が良い。こういう言葉使いをしていて得られる効用は、斜陽産業が儲からないことを他人のせいにして、心情的に癒されるというくらいのものである。誰の腹も膨れない。

そもそも若者は離れていない

そもそもこの言葉使いをする人間は、超近視眼的な発想に囚われていることに気づくべきだ。例えば「若者の車離れ」などと言っても、自動車なんてものが一般的に普及したのはせいぜい数十年の歴史しかないのだから、よく考えれば若者はずっと車離れだった。むしろちょっと前の一時代が「若者の車近づき」だったのだ。
若者の側からも、「俺らは一回も○○に近づいたことなんてないぜ」という反論がすぐに出てくる。最初っから近づいてもいないものからは、離れることもできない。ある一世代の価値観を自明と看做すから、こんな変なことになってしまう。

「若者の○○離れ」が使えるケース

「若者の○○離れ」という言葉使いが妥当性を持つためには、少なくとも数百年の歴史を経た人類の営みを対象としなければならないはずだ。例えば日本の人口は、長い間横ばいか上昇傾向にあったのに、現在の出生率は2を割っている。これは「若者の出産離れ」と言って妥当なケースだろう。
おおよその時代において出生率は2以上であったはずなのに、現代の出生率はそれを割っているということになれば、現代特有の要因があるかも知れないということになる。

特殊なのは「近づいた」世代

しかし、少し前の一時期の若者が車に食いついたからって、その他の時代の若者はそうじゃなかったのだから、現代の若者が車に近づかないのは、むしろ普通と言えるのだ。それよりも、車に近づいた一時期の若者を特殊と看做し、彼らがなぜ車を欲したのかを探る方がよっぽど有意義だと言える。
そのことをはっきりとさせるために、この言葉使いの実例を列挙してみよう。

  • テレビ離れ
  • 車離れ
  • 酒離れ
  • 新聞離れ
  • 活字離れ
  • ラジオ離れ
  • プロ野球離れ
  • 恋愛離れ
  • 雑誌離れ
  • CD離れ
  • 映画離れ
  • パチンコ離れ


どの「○○離れ」もここ数十年、せいぜい百年くらいの文化だということがすぐに分かる。米飯や畳や味噌や平仮名のように、長い歴史の審判を経て残ってきたと言えるものは一つもない。
「若者」という普遍的に通用する世代観を持ち込むならば、離れられる対象もせいぜい数百年単位で普遍性も持つ文化じゃなければいけないはずなのに。

どうしても「○○離れ」を使いたいなら

もしどうしても「○○離れ」という言葉使いをしたいのであれば、「若者の」という部分を、もっと個別具体的な主体に取り替えなければ、実態に沿った視点は得られない。例えば「ゆとり世代のクルマ離れ」、「ロスジェネの恋愛離れ」という具合にだ。
ゆとり世代のクルマ離れなら車がステータスシンボルとしての機能を失ったから、ロスジェネの恋愛離れなら、正規職を得られないことで自信喪失やデート資金不足に陥った、という具合に問題の分析に役立つ視点が得られる(この分析が正しいと言ってるんじゃないよ。飽くまで例えね)。
「若者の」と言っていたら、今までの若者はそんなことはなかったのに、現在の若者だけは変だ、という誤解を生む。しかし、世代ごとを個別具体的に指定した言葉使いなら、「○○離れ」の原因が実態的に見えてくるだろう。
実態を見つめることこそが肝要なのである。急激な変化の中で認知的不協和を起こしてしまう気持ちは分からなくもないが、「若者の○○離れ」なんてモノの見方をしている限り、現実逃避癖は抜けないだろう。

「若者論」を疑え! (宝島社新書 265)

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欲しがらない若者たち 日経プレミアシリーズ

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アイデンティティー格差社会

アイデンティティーがなければ社会を生き抜けない

アイデンティティーを捨てて、社会の荒波を超えていける人間はそうそういない。皆何かしら自分の能力、職業、地位、出自、学歴、容姿、経歴、思想、資産、才能などを帰属先に、自分とは何者であるか確認し、相手に知らせ、自他ともに安全・安心・期待を担保することによって、不透明な世の中を生きているわけだ。社会的動物と呼ばれる人間は、アイデンティティーをめぐるゲームの中を営々と生きてきた。

現代のアイデンティティーは移ろいやすい

しかし、現代に入って、安全・安心・期待を担保する職業や地位や出自や経歴などの帰属先が、とても移ろいやすくなってきてしまった。会社は元より職種自体の価値が急激に下がってしまうことはざらだし、大卒の価値も相対的に下がり続けているし、今日の大金持ちは明日の無一文かも知れない。

能力によるアイデンティティー格差

また、移ろいやすくなったことは同時に、新しい職業や地位へコミットしやすくなったということも意味する。能力のある人は、他分野や新分野にチャレンジしやすくなっているということだ。別の言い方をすると、能力のある人は、帰属先を選ぶ自由度が高く、アイデンティティーの掛け持ちも可能になった。
いくつもの帰属先を持っていることは即ち、流動性の高い現代の安全・安心・期待につながる。だから、能力のある人々は必然的に、多くのアイデンティティーを保有することになる。あるいは、アイデンティティ保有力のポテンシャルが、現代の能力だと言ってみてもいい。
また頭やセンスが良ければ、自分のアイデンティティーは自分で創造することができる。すこし前までは、慣れ親しんだ社会の道徳や規範の中で、承認される個性も限られていたが、今はそういったものが薄れているので、ある一定の人々の支持さえ勝ち取ってしまえば、アイデンティティーは自給自足できてしまうのだ。
その反対に能力のない人はアイデンティティーの選択肢がない上に、今持っている帰属先さえ明日はどうなるか分からないという不安に晒されている。現代の日本において、よっぽどのことがなければ、まず餓死することはあり得ないが、尊厳の危機にはもろ直面せざるを得ない。尊厳を失ってなお、まっすぐ生きていける人間は滅多にいない。

アイデンティティ下流社会

尊厳を失わないために、能力のない人はなるべくコミットしやすく、なるべく移ろいにくい帰属先を探す。代表的なものは、国民、ネットユーザー、2ちゃんねらー、若者、スピリチュアリスト、自己啓発セミナーが提供する人間観、霊能力者(!)といったものだろう。
2ちゃんねらーや若者のどこが移ろいにくいんだと思われるかも知れないが、2ちゃんはそこいらの会社よりも磐石だし、何より入りやすい。若者という帰属先は、年をとるまではとりあえず磐石である。世代間対立は経済格差によるものだけじゃなく、アイデンティティーによるものも大きいのだ。これから中々若者という帰属先を捨てきれないおっさんが溢れ出すかも知れない。ついでに言っておくと、霊能力やスピリチュアルも磐石で入りやすい。なんか見えたり、感じたりすると言っておけばまずいいし、努力や能力の不足もカルマで片がつく。

アイデンティティー多様化の必要性と残酷

現代になって流動性が高まったのと同時に、アイデンティティーは多様化している。今後国家が負んぶに抱っこもしてられないのだから、それは歓迎すべきことだ。もっと他の帰属先への参入障壁を下げる規制緩和を行い、転ばぬ先の杖を何本も自前で用意してもらうようにすればいい。
しかし、多様化の恩恵を受けるのは、能力のあるアイデンティティー強者だけだ。能力のないアイデンティティー弱者は、様々なお菓子の飾られたショーウィンドウの前で指をくわえている貧乏な子供状態になっている。
17人が死傷した秋葉原通り魔事件の犯人Kは、格差社会の象徴として受け入れられた。K個人の事情はよく分からないので、飽くまであの事件が社会にどう受容されたかについて語るが、経済格差への不満という文脈で結論付けるのは早計だ。彼は経済的弱者ではなくアイデンティティー弱者として、その刃は経済的強者に向かってではなく「ヲタク」というアイデンティティー強者に向けられたのだと解釈されたのだ。
今後、アイデンティティー弱者は増加し、(ある程度相関はするだろうが)経済的な格差とは関係なく社会の底辺を形成していく。貧しいけども楽しい我が家すら持たない彼らは、今までの底辺と比較しても、きわめてヴァルネラビリティー(脆弱性・攻撃誘発性)の高い状態にあると推測できる(だから逆説的にキレやすく、熱狂しやすいとも言える)。今後の教育、社会的救済はアイデンティティーの問題を抜きにしては語れない。

『ザ・コーヴ』 リック・オバリー氏の本音

太地町のイルカ漁を追ったドキュメンタリー『ザ・コーヴ』に主演(?)しているリック・オバリー氏が3日付の記事で、エンタメ情報サイトムビコレのインタビューを受けている。主には言論の自由について語っているのだが、そうではない箇所で、氏の主張する言論の自由をも台無しにしかねない、一部興味深い記述があったので引用する。

──最後に、食用として牛や豚を殺すことと、イルカを殺すことと、オバリーさんのなかではどのように違うのかを教えてください。


オバリー:それは正直、比べられることではないと思います。まず──、大きな違いは家畜動物と野生動物の違い。その点で大きな違いがあります。また、生態的に見てもイルカは、人間と同じくらい大きな頭脳を持っていること。ですから、ブタなどと比べるべきものではないのではないでしょうか。

出典:http://www.moviecollection.jp/news/detail.html?p=1356


オバリー氏は「野生動物と家畜動物の違い」と「人間と同じくらい大きな頭脳を持つイルカと、そうでない豚などの動物との違い」という二つの違いを持ち出している。
「家畜動物」という言い方には、食べられるために育てられているというニュアンスが含まれているし、「人間と同じくらい大きな頭脳」という表現には、人肉食がタブーであるように、人間が自分と同じように考え感じる能力を持ったイルカを食べてはいけないというニュアンスが含まれている。
なので通常は、上記の二つの違いを論拠にして「牛や豚は食べていいけど、イルカは食べちゃ駄目」という主張を展開するはずなのだが、オバリー氏は「比べられない」と言い、判断を避けているのだ。私は、この言い回しにオバリー氏の本音が透けてみえる気がしてならない。
巧みな言い回しに隠れてはいるが、結局氏の主張は「牛や豚とは比べられない。でも、とにかくイルカを食べるのは無条件に駄目だ」と言い換えられる内容だ。ほとんど定言命法めいている。苦しい説明とは言え、家畜と野生、脳の大きさの違いで、食べていいものといけないものの差異を説明しようという形跡が見られないのだ。かと言って全ての動物は食べていけないものだという主張でもない。つまり彼の主張は論理ではない。
とにかくイルカだけは食べてはいけないというなら、別にそれでいいのだ。「理由はないけど、イルカは俺にとってとにかく殺しちゃいけないものなのだ」とでも言えばいいのである。しかしそうしない。自分の主張に論拠がないということが分かっているが、それを巧みに隠して、さもイルカ漁に反対する人々と自分は同じですというように見せかけ、その力をたのんでいるのだ。
オバリー氏はおそらくイルカを食べることと、他の動物を食べることに、倫理的な差異を見出せないことに気づいている。悪と言えばどちらも悪だし、文化と言えばどちらも文化であることを知っているのだ。
おそらく彼の行動原理は、単に個人的なものだ。それは氏がイルカの調教師時代にストレスで自殺したところを目撃したというイルカへの罪滅ぼしでやっていることなのかも知れないし、欧米人のナイーブな同情を喚起しやすいイルカというネタで儲けようと目論んでいるのかも知れない。いずれにせよ、牛や豚まで同様に駄目と言ってしまえば、目的は果たせない。
ザ・コーヴ』の上映反対運動は言語道断だが、オバリー氏のマジョリティーに同調しているかのように見せかけ、故意に自分の本当の目的を隠蔽するような振る舞いも、同様に許してはいけない。そんなアンフェアな態度で、言論の自由を主張するのは卑怯としかいいようがない。

俺の、俺の、俺の教義を聞け〜

私は真理を悟った。皆が賛同してくれたなら、教団を結成し、魂の救済を目指したいと思う。私の思索は、現代の科学が到達してしまった「神の不在」という結論から始まった。すなわち、不完全性定理(無矛盾で完全な系は存在しない)、不確定性定理(神は賽を投げないはずなのに宇宙はランダムだ)、そしてグリムの定理(無矛盾で完全な系が存在しないなら、全知全能で完全な存在であるはずの神も存在しない)だ。
しかし私の悟った真理は、不完全性定理、不確定性定理、グリムの定理は完全なる誤謬であると主張する。では、なぜそんなものが生まれて、パラダイムを形成しつつあるかというと、神が人間の信仰を試そうとしているからだ。神は、不完全性定理、不確定性定理、グリムの定理を導き出すように、観察や証明過程を操作している。
神は、その目的を果たすため、論理を感じる直感的知覚に直接操作を加えてしまっているので、我々人間は、論理的、数学的、科学的手法ではその誤謬に気付くことはできない。
これらの主張の根拠は、私が以前に開発した人間の知性を遥かに超えた「シンギュラリティ量子コンピューター」がはじき出した計算結果だ。が、「シンギュラリティ量子コンピューター」とその計算結果は、私の研究を危険視したCIAによって破壊され持ち去られてしまった。
それでも、私は確かに目撃したのだ。目撃し、かつ鮮明に記憶しているのだ。そのこと自体が、おそらくは神の思し召しなのだ。
こんな反論も受けた。「百歩ゆずって君が嘘を言っていないとしよう。だとしたら、君は狂ってる。君の狂った頭が偽の記憶を生み出したんだ」。しかし、そんな悪魔の囁きで私の確信は揺らがない。そんなことを言い出したら、不完全性定理も、不確定性定理も、グリムの定理もわずか5秒前に埋め込まれた偽の記憶かも知れないだろ? そんなものをマジで信じてるってか? 5秒前の君は、マジで信じる5秒前ってか?
実際、このような社会的常識や科学的真理を傘にきて我々の信仰を躓かそうとする偽預言者の出現も「シンギュラリティ量子コンピューター」の計算結果は示唆していた。諸君、ペシミスト無神論者の戯言に惑わされず、真に至高の存在へと我々は突き進もうではないか。精神的に向上心のないものは馬鹿だ(爆)


※ギャグです。賛同しても僕のところに来ないでください。でも、多額のお布施を出すというなら、ちょっと考える。