やり場のない「愛」のゆくえ

映画『マグノリア』の登場人物に、ドニーという男がいる。その昔、天才クイズ少年としてちやほやされたのだが、今は空回りの人生を送っている冴えない中年だ。同性愛者の彼は、あるバーのマッチョな店員に恋をするのだが、どうやって思いを表現したらいいか分からず、まとまった金を手に入れ、悪くもない歯に、マッチョがしてるのと同じ矯正をつけることを夢想するという痛いキャラクターでもある。

その彼が、映画のハイライトシーンに、湧き上がる涙とともに吐き出す名ゼリフがある。

「この胸には、愛が溢れているのに、愛の捌け口が見つからないんだ」
(I really do have love to give, I just don't know where to put it.)

人間とは奇妙な生き物で、精液や排泄物と同じように、「愛」も吐き出さなくてはいられない生き物だ。何か愛の対象を見つけて、可愛がったり、愛撫したり、親切をしてあげたくて、どうしようもなくなってしまう。相手が自分の愛を望んでいようがいまいが関係ない。とにかく吐き出したい。

時に、愛を吐き出すために相手を傷つけることや、愛を拒否されて逆ギレすることさえある。犯罪の中には、溢れ出す愛情がゆえ、どうしようも自分をコントロールしようもなく犯してしまったものがも実はけっこう多いんじゃないだろうか。

原作江戸川乱歩、脚本三島由紀夫の『黒蜥蜴』という舞台がある。主人公は冷徹な美貌の女賊、黒蜥蜴。彼女は、あろうことか彼女を追う名探偵明智小五郎に恋をする。しかし、彼女は部下に命じ、ソファーの中に隠れていた明智をソファーごと縄でぐるぐる巻きにし、そのまま海に流し水葬礼にしてしまおうとする。水葬礼を執り行うその寸前、部下を外に追い出し、二人きりになった黒蜥蜴はソファーに接吻し、明智に愛を告白する。そして感極まって言う。「好きだから殺すの!」

黒蜥蜴は、宝石や美術品など美しくも冷たく、血の通わぬものにしか興味を示さない。姿形の美しい人間は、剥製にして、美術品や宝石と同じように、冷たい動かない体にしてコレクションに加える。そんな彼女が生身の血が通った人間に恋をしてしまった。彼女の冷たい心の中の、人間の部分を掘り返されてしまった。彼女は愛を吐き出したくはない。しかし、明智に恋をするということは、いつか愛を吐き出さなくてはいけないということである。そんな余りに人間的な、排泄的な振る舞いは、美学を貫く孤高の存在黒蜥蜴には、とうてい許される所業ではなかった。

相手に頼まれてもいない親切を働いて気持ちよくなったり、ペットをただただ欲望のおもむくままに愛撫する行為は、ちょうど排泄行為と同じだ。だから、可愛がられているはずのペットが安易に捨てられるのも別に不思議はない。便器に執着する人間がいないのと同じで、愛を吐き出す「便器」にも執着しないだけだ。現地妻や、不倫相手も同じ。思いっきり愛をもらって、本人もその気になってすっかり相手も自分のものであるような心地になるのかも知れないが、吐き出す愛がなくなったり、都合が悪くなったらきれいさっぱり捨てられ、二度と思いだされなくても何の不思議もない。

世間には、お手軽な愛も溢れている。街のそこかしこにある募金箱、善意の署名。ツイッターにも最近「善意のRT」なんてものが溢れかえっている。ちょうど公衆便所のようなものだろう。人様の役に立っているからいいではないか、という御仁もあるかも知れない。しかし、(全部がそうだとは言わないが)その寄付や署名やRTが、本当に正しいものか最低限の裏をとったり、少なくとも世間の迷惑にはなる蓋然性は見当たらないだろうと考えてみることもしないで拡散していく様子は、ある種の「疎外」さえ感じさせる。しかし、実効性よりも、とにかく愛を吐き出すことを優先させたから起こる現象だと考えれば不思議はないだろう。

本当に相手のことを愛しているなら、何もせずただ見守るということもあるだろう。あるいは、自分の思いはぐっと押さえ、相思相愛の恋人を助けるというシラノ・ド・ベルジュラックのような愛もある。だが、愛を吐き出したいと思うと、人間は相手のことなんかおかまいなしで、吐き出したい欲求で頭がいっぱいになってしまう。シラノは愛を吐き出したいのをぐっと堪え、ただ愛したのである。「愛する」ことと、「愛を吐き出す」ことは違う。

下(しも)の排泄なら、今はウォシュレットが標準的になってきて、便座は暖かく、マッサージ機能までついていて、下手するとトイレのふたまで自動で開閉してくれる。まさにいたれりつくせり。どんどん排泄してくださいとでも言わんばかりだ。しかし、愛の排泄はそうもいかない。ペットや子供は可愛いかもしれないが、うんこもするし、お腹が空いたら大きな声でなく、ほえる。気に入らないと、噛み付いたり反抗することさえある。愛を吐き出そうにも、ウォシュレットと違い一筋縄にはいかない。愛を吐き出すのはぐっと押さえ、愛することをもって向き合うしかない。

このやっかいな「吐き出される愛」は長い進化の過程で人間が獲得したものだろう。社会的動物として進化した人間は互いに助け合って生きてきた。助け合うという行為は愛の交換だ。しかし、人間は同時に理性の動物でもあった。不確実な愛の交換なしでも平穏無事に生きていけるように、技術知に裏打ちされたシステムで社会を覆った。人間は愛の交換などせずとも、必要なものを手に入れる最低限のコミュニケーションだけで生きていけるようになった。

するとどうだろう。交換されずに残った愛がどんどん体内に溜まりだす。この溢れ出す”愛たち”を吐き出したい。吐き出さなければ、体に悪い。そして人間はペットを飼い、恋愛相手を見つけ、慈善活動や政治運動に打ち込み、バンドをおっかけ、架空のキャラクターに入れ込み、好きな相手をストーキングするようになった。いわば、自分だけの「便器」を使うようになっていった。世間の迷惑になるかも知れないし、人や生き物を傷つけるかも知れないが、それでも満足してしまえるならまだいい。吐き出してしまっても、満足できない人間もいるのだ。

志賀直哉の短編に『小僧の神様』というものがある。大正時代の話だ。丁稚の小僧が番頭の話で聴いた鮨というものを食ってみたいと思い、鮨屋に赴くのだが、値段を見て諦める。その様子をたまたま貴族院議員の男が目撃していて、男の心になにか不憫な思いが残った。その後別の寿司屋で男は小僧を再び見つける。小僧は使いに来ているらしい。男は寿司屋に頼んで今度小僧が来たら、金は自分が出すから、鮨をたらふく食わしてやってくれと頼む。お陰で小僧は念願の鮨を食えるようになった。小僧はなぜこんな事が自分に起きたのだろうかと考え、これは神様のお陰だと考えるようになる。一方、男はというと…良い事をしたつもりだったのが、なぜか心晴れず、変な寂しい気持ちになる。そして自分のような小心者が、そんなことをしちゃいけないんだなと、嘆息と共に、妻に漏らすのだ。

この物語は、愛を吐き出すことが、内省的な人間にとっていかに難しいかを語っている。後先を考えれば愛を吐き出すことに躊躇してしまうし、また吐き出してしまった後でも、その意味を考えて思い悩んでしまう。例えば、心臓移植をアメリカで受ける子供のために必死に募金を集める親の姿に心を打たれ、寄付をしたとする。しかしその心臓を待っている人は他にもいっぱいいるのだし、よしんばその子供が助かったとしても、その子供は不幸に育ってしまい、幸せな幼い頃のままで死んだ方がよっぽど幸せだったことになってしまうかも知れない。いやいや、もっと悪くすると、多くの人を不幸に突き落とすような大人に育つかも知れない。そんなことを考え始めたら、安易に愛を吐き出すことなんてとてもできない。人間が本当に善きことを志向すればするほど、愛は吐き出されず、溜まっていくのである。

全ての吐き出される愛、交換される愛は、もともとが善意だ。助け合いから生まれたものだ。社会的動物として生き残るために生まれた本能だ。しかし、行き場を失った必要のない愛は暴走し始めた。なんて可哀想な人間達。愛を与えるニーズと、愛を欲するニーズがぴったり一致すれば何の問題もないのに。あるいはシステムが生活を覆う前のように、愛を吐き出す機会が豊富にあれば、ここまで苦しまなくて済むのに。一体、善意の人々が体内に溜まっていく愛から解放される道はあるのだろうか?

前述の『黒蜥蜴』のラストシーンを書いてみよう。海の底に沈んだ明智は……生きていた! 彼はソファーの中に隠れていると見破られることを見越して裏をかき、部下の一人に変装して黒蜥蜴のすぐ傍に潜んでいたのだ。そして、明智は彼女の告白もすべて聞いていた。アジトに潜入した明智は黒蜥蜴を追い詰める。後がない黒蜥蜴は毒を呷(あお)る。しかし彼女は捕まったから死ぬのではない。明智に本当のことを聞かれたから死ぬのだ。明智は死に行く黒蜥蜴に自らの愛も告白しようとするが、本当の心は聞かないままに死にたいと明智を制止して、黒蜥蜴は言う。

黒蜥蜴「・・・でも、うれしいわ」

明智 「何が・・・」

黒蜥蜴「うれしいわ。あなたが生きていて」

そして、永遠に、こと切れる。

この時、黒蜥蜴は明智に吐き出す愛をぶつけたかったのだろうか? あるいは本当に愛していたのだろうか? 答えは言うまでもない、本当に愛していたのだ。最初、黒蜥蜴は自分の人間的な気持ちに戸惑い「好きだから」明智を殺そうとする。しかし最期はただ明智が生きていたことを喜ぶのだ。自分の愛を吐き出すどころか、自分の恋する人の愛の告白を聞くという、この上ない喜びを放棄することさえ彼女の心を乱すことなく、ただ、嬉しい。

おそらく、彼女は「愛を吐き出すこと」を「愛すること」に昇華した、ということだろう。「愛すること」は何も求めない。何もしなくても良い。ただ、愛することだけが、心を歓喜で満たす。おそらく人は吐き出す愛を、愛することに昇華することで救われることができる。つまり、愛に押しつぶされそうな人間が救われる道は、より大きな愛に目覚めることなのだ。しかし、どうやって?

それを語ることはとてもとても、私の手にあまる。ただ、ひとつ出来る提案は、あなたも黒蜥蜴のように、心の中に「愛を吐き出す」ことの葛藤を抱えながら、心を愛でいっぱいにしてみては? ということである。彼女はやらなかったが、相手のためになると理性が判断するなら、実際に吐き出してみてもいい。大事なことは、溢れ出す愛に押しつぶされそうになったり、愛を吐き出して傷つけたり、拒否されて傷つけられたりしても、それでも対象を思い続けてみることだ。そして忘れてはいけないのは、吐き出す愛を良しとしない黒蜥蜴のような美意識を保ち続けること。その美意識が触媒となって、愛に溢れ圧が高まった心が、錬金術師の釜のように、「愛を吐き出すこと」から「愛すること」を生み出してくれるかも知れない。

唐突で根拠薄弱な提案だが、それがやり場のない愛で苦しむ人間を救う道だと、私は信じるのだ。



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