アドホックな故郷

大学生時代の友人で、何度か一緒に酒を酌み交わしたYという男がいた。同じく大学生だった彼は、アルバイト先が一緒で、仕事がはけた後、夏の紺色の夜空に月が煌々と輝いていて、何となくそのまま帰るのがもったいないような夜はふたりで公園で缶ビールを開けたり、24時間営業のファミレスに寄ったりして語り合った。

Yは、よく彼の「地元愛」を語った。彼は自分の「故郷」を茨城県の水戸に決めていた。決めていたというのは、彼が幼い頃から三度引っ越していて、水戸に住んだのは高校の三年間だけだったからだ。三度引っ越した中で水戸が一番楽しくて、愛着を感じていた。だから彼はそこを故郷に定めたのである。

彼は水戸の高校から推薦をもらって東京のM大学に来ていた。就職はそのまま東京ですると言っていた。東京と茨城という地理的な近さもあり、「地元」にはちょくちょく帰っているので、特に寂しさは感じないらしい。また、将来的には水戸で暮らしたいという展望も特にないらしい。

佐賀県」や「雪国もやし」で有名なお笑いタレントの”はなわ”は、もちろん佐賀県出身を自称している。しかし実弟であるナイツの塙宣之は千葉県出身だと自己紹介している。別に家族が離散していたわけではない。塙家は、千葉県から佐賀県へ引っ越していて、それぞれ思い思いの土地を出身県にしているというわけだ。

はなわ佐賀県人としての思いを強くしたのは、上京してネタ作りのために色々と佐賀のことを調べ出してからだという。それまでは特にそういう意識はなかった。つまり、彼にとって故郷は自明のものではなく、繰り返し思い出し言及することによって、そこが地元であったことに気付いた、あるいは故郷になっていった。

Yとはなわの故郷は従来的な故郷ではない。いつか錦の御旗を飾りたいと思う故郷ではなく、「遠きにありて思うもの」と切なく歌われる故郷でもない。辛い幼少期を過ごしたり、無情にも追い出されたりするような愛憎の入り乱れた故郷でもない。またデラシネの故郷のように失ってしまったが、心には残り続ける故郷でもない。それらのような自分とは切っても切れない様々な思いを表象する故郷は、自分で故郷を選択できないからこそ、立ち上がってくる故郷だ。

Yとはなわの故郷は、自分で選んだ故郷であり、だから自分で積極的に繰り返し繰り返し参照し、自己イメージと同一化していく。ちょうど、ロックスターやラッパーの生き様に感化され、自己形成のリソースとして貪欲に取り込んでいく青少年のようなやり方だ。ロックスターやラッパーと違うのは、故郷が「失われたもの」であるということだ。本来なら、もっていた(はずの)もので、また人間の存在と不可分のものなのだ。

今、アメリカでは黒人のイスラム教徒が増えている。これも、Y君やはなわにとっての故郷選択と同じような構図の現象だ。もともとキリスト教国家のアメリカだが、黒人たちはキリスト教を白人の宗教と見なし、黒人のための宗教としてイスラム教に改宗する。宗教は魂の故郷だ。マルコムXやモハメド・アリなどが代表例だろう。彼らは神を体験したり、救いを希求してイスラム教徒になるわけでないのだ。

「予め失われた故郷」を「アドホックな故郷」で代替することで自己を確かめていく人々は、これからも増えていくだろう。

私自身、東京の郊外育ちの反動で、日本史が大好きだったり、自分の先祖について思いを巡らせる子供だった。私も予め失われた故郷の住人の一人だ。チーマーやギャングみたいな不良になっていった同級生たちも、根っこは同じだったのだろう。彼らは背後に本物の地元を背負っているヤンキーのあり方をある意味で模倣した、アドホックなヤンキーだったのだろう。

大学時代、私は半ば同情し、また半ば羨みながら、Yが楽しそうに「アドホックな故郷」のことを話すのを聞いていたのだった。ただ、私も含めた一部の郊外育ちは、サブカルチャーやアートや文学などのイメージをふんだんに取り入れコラージュした原風景を持っている。

だから郊外育ちの一部は、十代から二十代にかけて、取り付かれたようにコンテンツを消費する。これは言ってみれば「故郷の種」を仕入れているということだ。そして心象風景の中に、バーチャルな故郷を形成していく。だから不思議なことに、体験もしていない田園や下町の風景、奥深い森や山、巨木の洞の映像などにノスタルジーを喚起されたりするのだ。これもアドホックな故郷だ。

予め故郷を失った者達は意識的につけ、無意識的につけ、アドホックな故郷を手に入れる。人間は故郷から逃れらない。それは、故郷は失うことが難しいものであるということよりも、失ったら手に入れずにはいられないのが故郷だということではないだろうか。



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