「非実在青少年」を愛する権利

架空の18歳未満のキャラクター、「非実在青少年」の性的行為を描いた漫画やアニメなどのコンテンツ(青少年性的視覚描写物というらしい)を規制しようという東京都の青少年健全育成条例改正案。その改正案をめぐる規制推進派と反対派の対立が、ますます活発になってきているらしい。

私は条例に反対だ。だが、反対の理由は巷でよく言われる「表現の自由を守れ!」ではない。表現の自由なんてものは、公共の福祉に反する場合取り締まられるのは当然だ。例えば、東京のど真ん中の街頭スクリーンにAVの本番シーンを流したら、表現の自由の前に小さな子どもに悪影響を与えたり、そういうコンテンツが嫌いな人々の「不快を避ける権利」を蹂躙することになる。

もちろん、東京のど真ん中でポルノを上映するような行為は駄目だが、条例反対派もそこまでは求めていないじゃないかという向きもあろう。そこで出されている提案が「ゾーニング」と「レーティング」の徹底だ。まずゾーニングとは何か。それは「青少年性的視覚描写物」を買えたり、目に触れたりするエリアを限定してしまうというものだ。そういうコンテンツが嫌な人や子どもは足を踏み入れなければいいということだ。

もう一つのレーティングとは等級付けのことだ。具体的には18禁、15禁という規制。それらをもっと厳格に執行する。例えば身分証明書の提示などが義務付けられたり、極端にふれればtaspoのような免許性になるのかも知れない。とにかく、ゾーニングとレーティングを徹底すれば、意図せずに嫌なコンテンツと接触してしまう危険性は薄れる。なるほど、これなら表現の自由と公共の福祉は両立できるかも知れない。

いや、ちょっと待って欲しい。実はこれでも万全な措置とは言えないのだ。当該コンテンツを含む雑誌が公共の空間である道端に捨ててあったり、これまた公共の空間であるネットにアップしてあったりすることで、子どもやこれらのコンテンツを不快だと感じる人々が、図らずも目にしてしまう可能性はぬぐえない。その可能性は、今挙げたもの以外にも無数に存在するだろう。

もっと悪くすると、破廉恥な大人がそういったコンテンツを子どもにわざと見せるということも考えられる。もちろん取り締まることはできるのだろうが、一度見たり、見せられたりした経験が消えるわけじゃない。その可能性を防ぐには、そういうコンテンツが存在しなければいい。と、いうことは、行き着く結論はこうだ。「ヤバいコンテンツは作るな!」。さらにエスカレートして、「子どもたちを守るため所持も規制しろ!」という事態も考えうる。

とどのつまり表現の自由を根拠に戦をするには、限界があるのだ。だから、そんなキレイごとを言うのは止めちまえ! というのが私の立場だ。それに、奴らのやり口には、そんなキレイごとよりも、もっと腹立たしいところがあるじゃないか。ロリでもペドでもない私が反対し、しかも怒りを感じている理由はそこだ。そことは何か。個人のセクシャリティーを権力が管理しようとする「横暴さ」のことだ。

セクシャリティーとはつまり、性的指向のことである。性愛の対象が何に向くかという話で、ヘテロセクシャル異性愛者)かホモセクシャル(同性愛者)か、という単純な括りに始まり、バイセクシャル両性愛者)であるか、パンセクシャル全性愛者)であるか、はてまたAセクシュアル(無性愛者)であるかにまで及ぶ。

しかし、人間の性的指向をこの枠内に収めきることは到底不可能で、例えばヘテロセクシャルの中にも、デブには絶対抱かれたくない!という女性もいるだろうし、お腹が出ててハゲてないと男を感じないという女性もいる。細マッチョがいいとか、巨乳がいいとか、貧乳が好きだったり、ガチムチには目がなかったり、フェティシズムもいれば、ロリもいて、女子高生オタクにOLオタク、金髪好きに黒人好き、ネクロフィリア、ショタ、やおいふたなりファザコン、マザコン、桶専と枚挙に暇がない。

中には実在青少年には萌えないけれど、非実在青少年には萌えるというセクシャリティーさえあるだろう。人間には、それこそ人の数だけ性愛のバリエーションがあって、また個人の中にいくつも抱えていたりするものなのだ。先天的なもの、後天的なもの、色々あるだろうが、それはすべてその人の個性なのだ。

何を性愛の対象にするか、そんなことは自由じゃないか! 自由に愛して、愛されて、愛し合う。それは人間にとってごく自然なことだ。自由な愛の形を、個性を権力が規制するなんて、とても許せたもんじゃない。我々は我々の自由を保障するために議員や長に権力を与えこそすれ、自由を奪わせるために権力を持たせ、税金を払っているわけではないのだ。

もちろん、積極的に他人へ害を与えるような行為は厳しく罰せられるべきだ。いくら幼女が好きだからって、拉致して陵辱するようなことは絶対に許されるべきではない。猥褻なポーズをとらせた幼女のヌード写真や映像が彼女の不利益になる可能性を認識しながら、芸術だということで撮影を断行するようなことも絶対にだめ。それは「未必の故意」というものだ。強姦、強制猥褻、ストーキングも、愛の形は自由だとは言え、許される行為ではない。

しかし非実在青少年はどうだ? 他人へ積極的に害をなそうとはしてないじゃないか。それなのに、自由な愛の形を否定するのか? 個人の自由なセクシャリティーに、行政や司法が介入するというのか? 冗談はよしてくれ。東京は、日本は北朝鮮じゃないんだぜ。

もちろんそれでも、ゾーニングやレーティングなどは必要だろう。見たくない人には見ない権利があるし、子どもに配慮するのは当然だ。しかしそれだって、そのようなセクシャリティーは完全に認めないということにまでエスカレートしちゃ駄目だ。趣味嗜好、愛の形の変態性はお互い様。自分と異なる性向を完全に否定してはいけない。自分の快楽は相手の不快かも知れないし、その逆もまた然り。必要なのはそこに思い至り、気遣いあうこと。つまり、マナーだ。

だから、多少子どもの目に触れる危険があったり、また実際に触れてしまったとしても、それはマナー違反だから悪いということをちゃんと教えるべきである。そして、これも星の数ほどあるセクシャリティーのあり方のひとつなのだから、もっと色んな愛の形を知って、自分の愛の形を見つけていこうね、と教育するのが健全なやり方ではないのか? あるひとつのセクシャリティーを知ってしまったらアウト、染まってしまって子どもの人格が歪むなんていう考え方の方がよっぽど不健全だ。

このマナーが自生的に育ち、機能している場合は公共の福祉など持ち出さなくてもいい。不要な法の強制は無ければ無いほどいいじゃないか。健全な自主規制は、暴力を背後に控えた権力を退ける。どうしても駄目な場合は「公共の福祉」という概念を根拠に法に登場してもらうしかないが、それでも公共の福祉を錦の御旗にして、青少年性的視覚描写物を完全に禁止し、個人の自由を踏みにじることはやり過ぎだということができる。

これは「表現の自由」の問題じゃない。もっと根源的な「個人の自由」の問題なのだ。個人の自由を踏みにじる権力なんて許していいはずがない。だから、規制反対派はもっと堂々と胸を張って自分たちのセクシャリティーを主張すべきだし、私のようなロリ属性の低い人間や、他のセクシャリティーの権利団体や運動も積極的に協力して、反対すべき条例なのだ。軍国主義の昔ならいざ知らず、21世紀にこんな時代錯誤を許してはいけない。

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